鵜戸神宮(うどじんぐう)の概要
日向神話の海幸山幸物語の舞台として多くの参拝者が訪れている。祭神はウガヤフキアエズミノミコト、縁結び、安産、海上安全などのご利益がある。また、豊玉姫が残していたと伝えられる「お乳岩」などもある。
「ウド」は、空(うつ)、洞(うろ)に通じる呼称で、内部が空洞になった場所を意味し、祭神名「鸕鷀(う)」が鵜を意味するのに因んで、「鵜戸」の字を充てている。古くは「鵜戸権現」とも称されたが、明治元年(1868年)の神仏判然令によって権現号を廃し、翌2年「鵜戸神宮」と改称、同7年に神宮号が宣下されて現社名となった。
鵜戸神宮内の景色及び名所
- 1
- 2
- 3
- 4
- 5
- 6
- 7
- 8
- 9
- 10
- 11
- 12
- 13
- 14
- 15
- 16
- 17
- 18
- 19
- 20
- 21
- 22
8 玉橋
「神橋」とも呼ばれ、釘を一切用いない橋板36枚からなる反橋で、金鋼界37尊を表す(36枚の橋板が36尊を、橋を渡る本人が1尊を表す)と伝える。
宝暦10年(1760年)に別当隆岳が撰述した『鵜戸玄深記』に、往古よりこの橋を境に不浄の履物を禁じているとの記述があり、ここから先は裸足で参詣する習いであったが、戦後にその風習は廃止された。
9 亀岩
亀石は本殿前にある霊石で豊玉姫が海神宮(わたつみのみや)から来訪する際に乗った亀が石と化したものと伝える。
石頂に枡形の穴が開くことから「枡形岩」とも呼ばれ、その穴に男性は左手、女性は右手で願いを込めた「運玉」を投げ入れることで願いがかなうといわれている。
9 運玉
かつては貨幣を投げ入れる風習であったが、1952(昭和27)年頃、落ちたお金を求め崖を降り磯に出る子がいて問題になった。このため賽銭に替わるものをと鵜戸小学校、鵜戸神官ともに試行錯誤した結果、1954年(昭和29年)から鵜戸小学校の児童らによって作られる、粘土を丸め運の文字を押した素焼きの「運玉」が使われることとなった。
10-1 本殿
社殿は、本殿・幣殿・拝殿が1体となった権現造(八棟造)こけら葺で、極彩色を施し拝殿には千鳥破風と唐破風を飾る正徳元年に飫肥藩主伊藤裕実が改築したものを、1889年(明治22年)に大改修し、その後の1968年(昭和43年)、1996年(平成8年)にも改修が行われた。幾度の改修を経たとはいえ、その様式は往時のままであり、文化的価値が高いことから、1995年(平成7年)に県の有形文化財に指定された。
10-2 本殿
御本殿には、主祭神日子波瀲武鵜葦草不合命(ウガヤフキアエズノミコト)の他、天照大御神・天忍穂耳尊(アメノホシホミミノミコト)・彦火瓊瓊杵尊(ヒコホニニギノミコト)・彦火火出見尊(山幸彦:ヒコホホデミノミコト)神日本磐余彦尊((神武天皇:カムヤマトイワレヒコノミコト)が奉らている。
11 皇子神社
本殿左側に鎮座し、(彦五瀬命)を祀る。もと吹毛井(ふけい)の船形山(ふながたやま)に鎮座し、明治維新後現在地に遷座したという。なお1977年(昭和52年)に旧社地にも分霊、復祀している。
鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)の第1皇子・第1代天皇神武天皇の御兄君
13 撫でうさぎ
「卵」と当神宮との御神縁は古く、第十代崇神天皇の御代に遡り、かねてより毎月「初の卵の日」が御神縁の日として御神威が最も高まる日と尊崇されて、鵜戸さんの「縁日祭が」連綿と今日まで奉仕されてまいりました。
卵は「兎」に通じ、ゆかりの「なでうさぎ」として、病気平癒海運飛翔など願い事がかなえられるといわれています。
15 御乳岩
日向神話によると、竜神に帰った母君の豊玉姫(トヨタマヒメ)が御子(ウガヤフキアエズノミコト)の育児のため、両乳房を神窟にくっつけて行かれた、と伝わる。「おちちいわ」は今もなお絶え間なく岩しみずを滴らせて、安産、育児を願う人々から信仰されている。
参拝者は「お乳岩」を触ったり「お乳飴」をなめると母乳の出がよくなると信仰されている。
20 吾平山上陵
ウガヤフキアエズノミコトは、その娣(おば)タマヨリヒメが妃(きさき)で、その間に五瀬命・稲飯命・三毛入野命・神武天皇が生まれた。
ミコトの陵は「西州(にしのくに)の宮に崩(かむあが)りましぬ。よりて日向の吾平山上陵(あひらやまのうえのみささぎ)に葬りまつる」(日本書記)とあり10世紀の延喜式には、それは「日向国に在って、陵戸(陵を世襲で守る人はない」とある
明治7年、政府は鹿児島県吾平町にその陵を定めたが、県内だけでも日南市・鵜戸山をはじめ高千穂や佐土原。西都市などにも伝説があり反論があった。その反論に抗しきれず明治29年6月23日政府は日南市・鵜戸神宮背後の速日峯山上を「御陵を墓伝説地吾平山上陵」と定めた。
また日南市の油津は古は「吾平津」と呼んでいて、のちに「油」となまったとゆう説があり吾平山陵とゆうのわ油津山上のことではないかととも言われる。
文久3(1863)年ここに飫肥藩が砲台を築こうとしたところ、土地が隆起してほこらがあったのでは、と思われる大石で囲った2ヵ所の廓室から銅・鏡・金環・玉・太刀などが発掘され藩庁が立ち入りを禁止したこともあった。
こうしたことから、鵜戸山の吾平山「吾平津」(油津)までを指すのではないかという伝説もあった。さらに吾平津神社(乙姫大明神)との関係も強調された。
またミコトに関連して、トヨタマヒメは竜宮から海亀に乗ってきて同市風田の川上神社にとどまった。そこで同神社にヒメを祭り風田地区では昔から海亀を捕ることをしない。よそから人が来て亀を捕れば、それをいさめて亀を助け海に返したという。
鵜戸山の北側の宮浦神社はタマヨリヒメを祭っており、玉依姫の住居跡という古くから安産祈願のため、参詣者が多く、特に毎月の牛の日がにぎわった。集落の田の中にある岡陵がヒメの陵だという、ここに育つ草を牛馬に食べさせるとたちまち腹痛を起こした。またある人がこの陵を切り開いてそば打ち場にしたところ、たちまち足が痛み始めた。子や兄弟も同じように苦しんだ、これは神の心によるものであろうと恐れられだれも近づかなかった。
21 波切神社
波切神社は鵜戸神宮御本殿同様、波の浸食によってできた洞窟(不動窟)にある神社
波切神社の左には波切不動尊があります。
鵜戸神宮境内社。もと、波切不動尊と呼ばれ、廃仏毀釈により(波切神社)となった。
22 八丁坂
鵜戸山への参詣路として鵜戸の港から鵜戸神宮の神門まで長さ八丁(約八百メートル)の石段が続いている。
石段は吹毛井側から上り四三八段下り三七七段の合計八一五段からなる石段は近くの海岸から運んだとみられる磯石で人々の往還ですりへり中央部が凹んでおり、往時の鵜戸山参りの殷賑さがしのばれる。
この八丁坂の石段は古老の伝えるところによると平安時代(延暦年中)吹毛井に住む僧侶が頭に磯石を、かついで築いたものといわれ、以来江戸時代に至るまで修造が重ねられ石段の両側には老杉が聳え、明治維新まで鵜戸山仁王護国寺の十二坊があり盛観を極めた。
現在日南市指定の文化財である。
22 八丁坂ギャラリー写真
- 八丁坂参道入口
- 八丁坂途中鳥居
- 八丁坂
- 累代別当宮司の墓地入口
- 初代別当光喜坊快久の墓入口
- 八丁坂下り
※掲載情報は最新の情報と異なる場合がございます。