振徳堂(しんとくどう)の概要
天保2年(1831)飫肥藩13台祐相公により開港され、孟子の教えにあたる「又従而振徳之」から振徳堂と名づけられた。教授には安井滄州、息軒親子を招き、藩士の子弟の教育に努めた。小倉処平、小村寿太郎も振徳堂で学んだ。
藩校の敷地の外回りには高さ三mを超える切り石の石垣が積まれ、南向きの入口は長屋門を構えている。一四六八坪の敷地内には、教室となった素読の間、講釈の間などの主屋、剣術場や槍術場、居寮など延べ二七三坪の施設があった。「飫肥藩学制沿回革取調旨」
飫肥藩では中小姓以上の藩士の子弟は必ず入校しなければならない規定で、徒歩格以下は任意で入校できた。また藩士以外でも希望するものは入学を許されたが、町人や農民はおもに習字・算術を一般の家塾で学んでいた。・・・飫肥歴史紀行から引用
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