酒谷神社(酒谷城跡)の概要

【酒谷城】
酒谷川南岸の丘上に位置する。北には丘が続き、東・西には水田が広がる。水田面との比高は約四十メートル。空堀に区切られた四つの郭からなり、飫肥城から都城に通じる交通の要衛を占めている。逆谷・酒谷などとも書いた。享徳~長縁禄年間(一四五二~六〇)頃のものと思われる野辺盛仁所領目録(野辺文書)には盛仁の日向国の当地行分のうちに「飫肥酒谷之城一円」などとみえ、十五世紀中期以前に築造されていたと考えられる。
天正六年(一五七八)日向は島津氏が領国化し酒谷地頭として奈良原延が任命された。同十五年
(一五七七)、豊臣秀吉の九州平定によtり、飫肥は伊東佑兵に与えられた。
同十七年(一五七九)五月祐兵は曾井(現宮崎市)の河崎権助(祐兵の義兄弟)を城代(酒谷地頭)に置き、河崎宮内左衛門を副城代とした。
よく十八年(一五八〇)二月、河崎権助を曾井に戻し、長倉三郎兵畏衛を酒谷地頭、長倉二郎右衛門を副城代とした。酒谷城は元和元年(一六一五)の一国一城令によって破却されたと考えられ、現在は城跡東隅に同年再興と伝えられる酒谷神社が鎮座する。

酒谷城の攻防

文明十六年(一四八四)十月二十日 伊東氏が襲奪う。
文明十七年(一四八五)六月二十日 島津氏が奪い返す。
文禄 五年(一五六二)二月 十日 伊東氏が再び奪う。
文禄 七年(一五六四)三月十四日 伊東氏が酒谷城を攻撃するが失敗する。
文禄十一年(一五六八)六月 十日 三度伊東氏が奪う
天正 六年            また島津氏のものとなる。
「伊藤氏の豊後落ちによる。戦なし。」
天正十五年(一五八七)以降、飫肥・酒谷等は、明治二年(一八六九年の版籍奉還)まで、伊東氏が支配する。「秀吉の九州平定による。戦なし。」
酒谷城は、元和元年(一六一五)の一国一城令によって取り壊されたと考えられる。

酒谷神社

酒谷神社入口

酒谷神社参道

酒谷神社

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このページの投稿者:ヨシユキ

MIRANKA広報担当のヨシユキです。H24年4月にボランティアとして立ち上げて今年で10年目に入りました。 なかなか更新が出来ませんが自分なりに頑張って日南市をPRをしていきたいと思います

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